まんまる保育園

楽しかったですね!

こんにちは、園長ブログです。

11/4土曜日。
まんまる運動会イベントが開催されました‼

ほぼ全員の在園児とそのご家族や、たくさんの卒園生とそのご家族に集まっていただきました。
みなさんにご協力いただいたおかげで、とても楽しい運動会になりました!


あらためてここに感謝の意を表明いたします!!



ということで…

今年は白組が勝ったのかな?

ですが

当日の園長挨拶の時にもお話ししましたが、最終的な勝敗はどちらでもいいのです。
ならばなぜ、まんまるの運動会ではみなさんに「勝ちにいっていただきます!」と言い続けているのかといえば、そういう意識で参加した方が、圧倒的に楽しいからです。

『「勝ち」にはいくが、最終的な「勝ち」にはこだわらない』

もしかしたらこのニュアンスは伝わりにくい方がいるかもしれませんので、ちょっと説明をしてみようと思います!

まず第一に、まんまるの運動会は当然のことながら保育園行事です。
ということは、「子ども主体」であって「子どもの最善の利益に資するもの」でなくてはいけないのが前提です。
幼児教育(だけではありませんが)において、「楽しむ」ことは学びや発達につながる重要なポイントです。
なので、仮に最終的には「勝ち」という結果になったとしても、大部分の時間を占めるその「過程」が苦痛や倦怠ばかりでは、運動会をやる意味がないのです。

「楽しむ」ことを、なぜか罪悪としてとらえる習慣が日本には昔からありますが、メジャーリーグで活躍している大谷選手の例を出すまでもなく、「楽しむ」ことは大人にとっても有用なことだと現在では広く考えられています。

入口の「いっぱいわらお」の看板が示すとおり、まんまる保育園では、すべての場面で「楽しむ」ということを、最優先課題として創業当初より掲げています。
この運動会もその一環として考えた結果、現在のかたちになっているのです。



第二に、スポーツは「勝ち」にいくから楽しいのです。

ルールを設定し、その枠の中での「勝ち」を目指して対戦するのがスポーツなんです。
なので、昨今流行の「不平等なので順位を付けない」という運動会はスポーツではありません。

スポーツ以外の事象においては、勝ち負けというものは、はっきりしない場合が多いです。
同じ事柄でも、見る角度や立場によってその解釈は違ってくる場合がほとんどですし、そもそも勝ち負けという概念が存在しえない場面も多いです。

元々勝ち負けを競うことを「楽しむ」ために作られてきたものがスポーツやゲームなのです。
まんまる創業以来「楽しむ」を追求してきた私たちなので、それを排除するということは、選択肢としてありえません。


第三に、
何度も言いますが、最終的な勝ち負けは本当にどうでもいいんです。

というよりも、
最終的な勝ち負けの結果に固執しすぎると、いろいろな意味で上手くいかないことが多くなります。
ですが、
勝ち組・負け組とか、正解・不正解とか、アリ・ナシとか…
近頃は様々な場所で○か×かを決めたがる人が増えたように思います。

先ほども書きましたが、スポーツやゲーム以外の現実の世界では、明確な勝ち負けというものは、実はほとんど存在しないのです。
だからですかね?
「それって勝ちなの? それとも負け?」
なんて、
ホントはどちらでもいいはずのことの結果についても、勝ち負けを決めたがる人が多いように感じます。




対戦すれば必ず、どちらかは「勝ち」でどちらかは「負け」なんです。
つまり、勝ちと負けとは表裏一体、「負け」があるから「勝ち」が存在できるので、そういう意味ではどちらでも同じなのです。

ですが、「負け」が決まった後には、なぜか原因探しが始まりがちです。

「誰々のせいで負けた」とか
「○○君が走るの遅いから」とか
「あの人真面目にやってない」とか
「こっちは人数が少なかった」とか…


こういうのは、それこそ「楽しむ」こととは真逆の心情で、まんまるの運動会にはまったく必要ないことなので、
「最終的な結果には必要以上にこだわらないでほしい」
としているのです。


ラグビーでは、試合終了のことをゲームセットではなくノーサイドと言います。
「試合が終われば敵と味方の区別は無し」というのがその趣旨ですが、「勝ちも負けも試合といっしょに終了」という意味でもあります。


ラグビーは激しく身体がぶつかり合うスポーツなので、先に遺恨を残さないようにと意識的にそうしているのかもしれません。
ですが、「まんまるの運動会にもマッチする考え方だな~」といつも思っています。





何度も繰り返しますが、「楽しむ」が何よりも大切だと私たちは考えています。

まんまる保育園に携わるすべての人に、できるだけ楽しい毎日を送ってほしいとも考えています。

そして

「みんなでこの想いを共有できたら素敵だろうな」

と考えているのです。