まんまる保育園

燃える闘魂

こんにちは。
園長ブログでございます。

先日、アントニオ猪木さんの訃報を耳にしました。
難しい病と闘病中なのは知っていたはずですが、なぜか予想以上にショックを受け、とても寂しく悲しい気持ちになりました。

 今まで私は、近しい人などが亡くなってもそれほど悲観することはありませんでした。
 もちろん悲しくないわけではありませんが、激しく泣き崩れるようなことも今まではありませんでした。
考えてみましたが、もしかしたら「死」を「生」の段階の一つとして私の中でとらえているからなのかもしれません。
つまり、死を「当然あるもの」として認識しているので、実際に直面してもそこまで激情に駆られることは無いと。

ですが、今回はだいぶやられてしまいました。

もしかしたら私、アントニオ猪木だけは「不死身」だと本気で思っていたのかもしれません。


振り返ってみれば、少年期の金曜夜8時はテレビの前に釘付けでした。
「ワールドプロレスリング」という新日本プロレスの中継番組がありまして、母親以外の家族全員で「外人レスラー」と闘う日本人レスラーに声援を送っていました。

時は流れ、私も20代に突入し、テレビだけでは飽き足らず、東京ドーム・両国国技館・後楽園ホールなどの会場にも頻繁に足を運ぶことになります。
様々なプロレス団体の興行に行きましたが、一番はやはり新日本プロレス。
その間の約20年、スターレスラーはたくさん生まれましたが、新日本の看板スターは常にアントニオ猪木でした。
晩年の本人が試合に出ない日でも、新日本プロレスのレスラーはすべて「猪木イズム」の継承者ですので、アントニオ猪木の存在は常に会場中に感じられました。

すっかりプロレスオタクとして育っていた私ですが、きっとそんな時期だったのでしょう、自身の将来と真剣に向き合うために「プロレス断ち」を決意します。
ですが今振り返って考えてみると、ちょうどその頃にあった「猪木プロレス引退」も無関係ではなかったように思われます。


 世間でのイメージはわかりませんが、私の中での「アントニオ猪木」はプロレスラー以外の何物でもありません。
その後の国会議員やタレント時代も注目を浴びていたようですが、その頃の活動に私はまったく興味がなく、逆に蛇足的な印象を勝手に感じておりました。

「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」
これは一番好きな猪木さんの言葉です。
私の中のアントニオ猪木は、どんな相手とでも闘う、どんな逆境にも負けない、どんな社会的圧力にも屈しない、不死身の男なのです。
時が経ち、この言葉は私の目指すスタイルにもなりました。

猪木さんは多分、「不治の病」といわれる今回の難病の挑戦をも受けてしまったのでしょう。

できることなら病気にも勝ってほしかった…

ご冥福をお祈りします。